決めるのは誰か 暴風雨-4
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自分が言葉を失っているのに気付くのに、数秒ほどの時間が必要だっただろう。
緊急停止した脳の深部で、生存本能が警報を鳴らしていた。この不自然な沈黙は危険だ。狼狽していると見なされ、余分な疑念を与える事になる。私は凝り固まった思考から、何とかして言葉を搾り出そうとした。
「もしもし」
山下の呼び掛けが私の鼓膜を叩いた。丁寧な口調だが、聞く者には不快な自信を纏っている。その自信は、獲物を目前にした猛禽のそれと同じだろう。相手の運命を支配しているという傲慢な思い込みだ。
「はい」
余裕を演技する暇もなく、単純な返答が口から飛び出していった。それに気付いた私は、大きく息を吸った。落ち着け。相手のペースに嵌ってはならない。
「ちょっと、北村さんにお願いしたい事があるのですが」
「私に、ですか」
「ええ、北村さんご本人に、です」
「なんでしょう」
僅かに回復した余裕が、徐々に思考を呼び戻しつつあった。
「夜分申し訳ないのですが、今から改善局までご足労願いたいのですが」
「今から、ですか」
「ええ」
「どんな用件でしょう」
やはり、私は監視されていたのだろうか。そして西山の手紙を投函した瞬間を、目撃されてしまったのだろうか。そう考えた途端に、極寒の恐怖が私の背筋を走り抜けた。思考が再び凍結しかかったが、私は必死でその恐怖を振り払った。恐怖に捕らわれた先入観を持つことは、相手に主導権を引渡すようなものだ。
「来られたら、お話します」
「行ったきり帰れなくなる、ってことは、ないでしょうね」
受話器の向こうから軽い笑い声が響いてきた。私の危険な牽制球を、山下は笑って躱したようだ。
「それは大丈夫ですよ」
彼は笑いながら答えた。しかし、すぐに笑うのを止めて、冷淡を口調に乗せて続けた。
「でも、今すぐに来て頂かなかったら、保証しかねますが」
「それはどういうことですか」
刃向かう危険を承知しながらも、私は敢えて彼に訊いた。
「協力頂ければ、おそらく今日中に帰って頂けますが、協力頂けない場合は、私からは何とも言えませんね」
彼は脅しているのだ。彼の意向に逆らうのであれば、私を拘束することができるのだと。
「判りました。山下さんを尋ねさせて頂けば、いいのですか」
私はそれ以上の議論を止めた。恐らく、西山の件で情報提供を求められるのだろう。社会改善局から何を聞かれても、彼に不利になるようなことを教えてやる気はなかったが、無理に逆らって自分の身を危険に曝す必要もない。
「ええ。受付は閉まってますから、夜間入口の方に回って頂いて、秩序保安課の内線を呼び出して頂ければ、私か部下が出ますので」
「判りました」
受話器を置いた私は、両の肩を大きく落としていた。
「大丈夫だよ」
不安と心配を一杯に浮かべた妻の視線に、私はなるだけ優しく言った。
「気をつけてね」
「先に、寝てていいよ」
妻はつい先程、社会改善局に油を絞られたばかりだ。心配するなと言っても、無理な話だろう。
「大丈夫だよ」
そう念を押した後、私は近くのコンビニに行くかのような余裕を俄か作りで取り繕って、玄関のドアを開けた。
雨は既に小振りになっていたが、代わりに強い風が猛威を振るっていた。道路に出た瞬間、木々を揺らして街角を吹き抜けてきた強風が、私を傘ごと押し戻そうとした。道路の上には吹き飛ばされた木の葉や小枝が散らばり、不規則に巻き上がる風がそれらを更に弄ぼうとしていた。乱雑に吹きすさぶ突風に煽られ、道路標識が不気味な唸りを上げて振動し、立て付けの悪い看板が今にも吹き飛びそうな形相で喘いでいた。
私は傘を閉じた。途端に、強い風が私の髪を乱し、風に乗って舞い飛ぶ雨粒が頬を打った。私は肩をすくめて背中を丸め、前のめりになって歩道を歩いた。
青白い街灯と行過ぎる車のライトが闇を気まぐれに照らす中、勝ち誇ったかのような猛烈な勢いで、目に見えない空気の塊が木々を揺らして近付いてくる。木々のざわめきが悲鳴に変わり、乱暴な風の襲来を教えてくれる頃には、私はその空気の塊に打ちのめされている。こんな強風の中を歩き続けるのは、大変な徒労だ。しかし、私は社会改善局に行かなければならない。
何故こんな目に遭いながら、私は改善局の呼び出しに応じなければならないのか。理不尽な強制に対する怒りが、私の胸中で荒れ狂っていた。しかし、拘束をちらつかされては、出向かない訳にはいかない。
体調不良や何らかの理由をつけて、出頭期日を延ばしてもらう事も可能だったのかも知れない。しかし、そんな事をしても、殆ど意味はないだろう。社会改善局が私に目を付けた理由を知らないうちは、精神の安定を乱され、安眠すら叶わないだろうし、会社の仕事すらも妨げられるだろう。実際に、今日がそうではないか。社会改善局のお蔭で、私は残業を断念して帰宅する必要に迫られた訳だし、西山の手紙の件でも精神的安定を大いに揺さぶられたのだ。悪い事はさっさと片付けてしまうに限る。いつまでも持ち越していては、仕事に差し障りが出てくる。
一体何故、社会改善局は私を呼んだのであろうか。やはり西山の件だろうか。私が彼の手紙を投函した事を、改善局は既に突き止めたのだろうか。あるいは、会社の前で見せた不自然な行動を見咎め、勘繰りを入れるつもりだろうか。あの後の私の行動は、今から考えてみれば、明らかに不自然だ。わざわざ改札から遠い車輌に乗り、振り返りながらゆっくりとホームを歩き、人通りの少ない道を選んで遠回りした上に、通勤ルートから遠く離れた郵便局で手紙を投函している。用心の為にした行動が、かえって改善局の注意を引いてしまったのかも知れない。
強風が私を弄ぶたびに、頭脳を乱舞する不安は一層その勢いを強めようとした。我が物顔で私の心を苛もうとする不安を必死で払い除けながら、私はタクシーを拾うために大通りへと向かった。








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