決めるのは誰か 月曜日の朝-2
←・前節へ
休日の疲れは容易には抜けないらしい。私は肩から腰に至る重いだるさに意識を阻害されつつ、能率的とは言い難い午前中を過ごした。
「これではまずい」
一昔前のサラリーマンならいざ知らず、勤務時間内に意識を緩めるなどという贅沢は、今の会社員には許されないのだ。常に最高の効率を維持して、間断なく仕事を進めてゆかなければ、現在の待遇を維持することもできないのだ。全ては仕事の成果で決められる。私の成果が悪ければ、私の給料は下がる。給料が下がれば、生活を維持する事は困難になる。そして一度落ちた評価を再び上げるには、待遇維持に必要な成果の、倍にも匹敵する実績を上げなければならない。
前世紀の末には、たとえ会社で昼寝していても、会社員は給料を満額貰えたらしい。それにさしたる成果を上げなくても、年齢と共に給料は上がったそうだ。
しかしそれは既に過去の話である。私は過去ではなく、現在に生きているのだ。そして、現在を生きるには、現在のやり方がある。そう自分に言い聞かせつつ、私は効率的な午後を取り戻すために、昼食後の昼休みを短い睡眠に充てることにした。
背中から湧き上がってきた疲れが脳細胞を包み込み、柔らかい睡魔が神経を無秩序に弛緩させ、私は眠りに落ちつつあった。周囲の現実と切り離された思考が浮遊感を味わい、神経細胞を錯綜していた情報が無意味な断片に姿を変え始め、意識は無意識と交代しつつあった。
「北村さん」
平和な午睡に埋没しつつある私に向かって、意識の水平線の彼方から、何者かが呼び掛けてきた。
「午後の仕事のために、私は眠らないといけないんだ。私の休息を邪魔するのは一体、誰なんだ。午後も調子が悪かったら、お前は責任を取ってくれるのか」
まどろみかけた意識が支離滅裂な怒りを生成し、苛立ちの信号が神経系を駆け巡った。強い刺激を受けた脳細胞は不本意な覚醒を余儀なくされ、無意識は意識の深層へと沈んでいってしまった。目覚めつつある意識が脳内でのさばる不快感に反射的に反応し、それを理性の鎖で厳重に縛り上げた。そして漸く、私は目を開いた。
「寝てたんですね。すいません」
隣席に座る後輩、西山の声だ。全く悪気を帯びていないところをみると、どうやら彼は私が眠っていた事に本当に気付いていなかったらしい。
「ん、ああ」
寝ぼけた振りを装う数秒の間に、私は怒りを鎮め、理性を纏った。
「ちょっと、北村さんにお願いがあって」
私は視線を彼の声の方に向けた。無駄な贅肉の存在を認めない鋭角的な顔つきに、髪を短く刈り込んだ西山は、普段は弱気の欠片すら感じさない。しかしその時は、似合わないためらいを表情に浮かべていた。彼の目は細いメタルフレームの眼鏡の向こうで意気消沈したようにうつむき、彼がただ事ならぬ事態に陥っている事を訴えていた。
「どうしたんだい」
私の眠りを邪魔したぐらいで、彼がそのような表情を見せる事はない。一体、何事だろうか。
「明日から、例の法律が施行されますよね」
「例の法律?」
なにか、仕事に大きな影響を与えるような法律が施行されるのだろうか。
「環境権」を規定した憲法改正を受け、環境基本法を始めとする環境関連法規が改正されていたが、半年後の施行を控えたそれら新法への対応は、コンプライアンス部門の連中と共に徹夜を繰り返した挙句、つい先日仕上げたばかりである。その時の疲れがまだ残っていると錯覚するほど、社内規定や手順書の変更には膨大な労力と絶え間ない頭脳労働を要求され、暫らくは法律の条文など見たくもないと、本気で悪態を吐いたほどだった。
その時の苦労を思い出しながら、私は素早く記憶を検索した。しかし、その他に思い当たるものは何もなかった。
「環境がらみの施行は、まだ半年先の筈だぞ」
「それじゃないですよ」
「なんか、他にあったかなぁ」
「そっか。北村さんは環境基本法対応で忙殺されていたんですね」
西山は視線を上げた。目尻の端には微かな同情が浮かんでいた。
「そうだよ。まったく、慣れないことはやるもんじゃないな」
「まぁ、そうでしょうね」
「で、例の法律ってなんだ?」
「アレですよ。『社会改善法』ですよ」
「ああ、アレね」
社会改善法も、先の憲法改正に伴って制定された法律だが、野党の猛反発にも拘わらず強行採決で成立してしまったという曰く付きの代物だ。
「そう、アレですよ」
「アレが、どうしたんだ。ひょっとして、ルール・ボランティアにでも、応募したのか」
「まさか、権力の犬になるぐらいなら、野良猫の方がましですよ」
西山は吐き捨てるような口調だった。
「おいおい、過激だな」
ルール・ボランティアとは、社会改善法施行に伴って新設された組織、社会改善局に協力する民間人ボランティアだそうだ。「秩序ある社会を実現しよう」という触れ込みで募集されていたが、無給の奉仕活動にも拘わらず応募者が殺到したという。
「あれは、スパイみたいなもんですよ。『秩序の乱れ』とやらを見付け出して、社会改善局に通報するんでしょ。つまり、民衆を見張る秘密警察のスパイですよ」
西山は急に声を潜めた。彼は社会改善局を秘密警察のように考えているらしい。
「大袈裟だな。君は」
社会改善法の趣旨は「公共マナーを増進し、社会の秩序を回復することで、思いやりのある、誰にとっても住み良い社会を実現する」というものであり、彼の心配は度が過ぎているように思える。それに、緊急を要する場合以外、あるいは絶対に必要なケースを除いて、社会改善局は市民を逮捕したり、拘束したりはできない筈だ。
「みんなのマナーが改善されるなら、それで良いんじゃないか」
西山にそう言いながら、私は朝の通勤電車で寝そべる若者の事を思い出していた。混雑した通勤電車のシートを我が物顔で占領し、他の乗客の迷惑も顧みず、悠々と寝転ぶ若者。彼のあの行為は疑いなく、社会改善局に通報されるだろう。社会改善局が彼をどうするのかは知らないが、少なくとも、あの若者が電車の椅子を寝床代わりにする腹立たしい様子を見る事は、もうないだろう。
あの若者だけではないだろう。電車の中で携帯電話に向かって大声で話すオジサン、ヘッドフォンステレオから耳障りな雑音を撒き散らす若者、何食わぬ顔で列に割り込むオバサン。社会改善局が存在し、秩序の破壊に目を光らせているというだけで、彼らの多くは自らの行動を慎み、迷惑行為は社会から消え去ってゆくだろう。そう考えると、まんざら悪いものではないのかも知れない。
「北村さんは、楽観的ですね」
そう呟いた西山は、微かな溜息を漏らしていた。
「まぁ、悲観しても仕方ないからな。謳い文句どおりに社会改善局が機能したら、『爽やかな社会』というものが、本当に実現するのかも知れんしな」
「誰にとって『爽やか』なのかが、問題になるでしょうね」
「まぁ、そうだろうな」
「僕はそこまで、楽観視できないですね」
「そうかい?」








0 コメント:
コメントを投稿