決めるのは誰か 写真-1
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写真
漸く捕まえたタクシーの後部座席に身を沈めている間も、強風に抗って社会改善局の夜間入口へと歩く間も、改善局の小部屋で山下を待つ間も、その不安は遠慮なく私の思考を蝕みつづけ、私の心を苛みつづけていた。唯一の希望は「出頭した以上、その日のうちに家に帰れる」という山下の口約束だけだった。下手なことを言わなければ、今日は拘束される訳ではないのである。
西山の例の「詩」を読んだ事以外、西山の事は知らないで通そう。私はそう決めていた。なるだけボロを出さずに無事に家に帰るためには、彼らに言い掛かりを付けさせる隙を見せてはならない。私は妻と子供たちを養っていかなければならないのだ。数ヶ月にも及ぶ「更生教育」など、受けている暇はない。
取調室、と呼ぶべきだろうか。私が案内された部屋は狭くて窓も無かったが、息の詰まるような雰囲気ではなかった。部屋の中央に質素なテーブルを挟んで椅子が二脚ずつ並ぶ様子は、中小企業の簡素な打合せ室を思わせた。淡いベージュの色調で統一された部屋を蛍光灯が明るく照らし、暗い印象も煤けた雰囲気もなかった。取調室の代名詞的存在ともいえる丸い傘の卓上ランプも、元々無いのか、たまたま無いのかは知らないが、影も形も見当たらなかった。
私は最も奥の椅子に座っていた。入口と向かい合う形になるが、市民としての私の自尊心は「お客さま」の位置に座る事を選択した。私は取調べに来ているのではなく、「お願い」されて情報提供に来ているのだ。私は自分にそう言い聞かせていた。
「こんばんは。夜分にすいませんでした」
ドアが開いて、細身で中背の男が姿を現した。片手でドアノブを握り、片手に資料を抱える雰囲気は、普通の会社員のそれと同じで、特段の威圧感や権威を纏っている訳ではない。しかし、少しやつれ気味の神経質そうな顔で、眼鏡の奥に光る目だけは、異様な鋭さを浮かべていた。
「いえいえ。お急ぎの様子でしたから」
相手が部屋に入ってきた瞬間、私は反射的に腰を上げそうになった。ビジネスマンとしての習性が私にそうさせたのだが、私はすぐに状況を思い出して、浮きかけた腰を椅子に落ち着けた。
「ご協力、有難うございます」
スーツ姿の山下は、微笑を浮かべながら私の向かいに座った。親しげな様子は、まるで市民の相談に応じる税務署の担当者のようだが、目は厳しいままだ。
「いえいえ。とんでもないです。お役に立てるのであれば、幸いです。で、ご用件とは」
半ば脅迫されて私は出向いてきたのだが、そんな事はおくびにも出さなかった。無意識のうちに頬に微笑を浮かべられるビジネスマンとしての本能に感謝しながら、私は丁寧な口調を意図して用件を尋ねた。
「ちょっとお待ちくださいね。今、資料をお見せしますから」
そう言うと、山下は机に置いたファイルを開いて、ページをめくり始めた。表情も態度も変えずに、私は視線だけで山下の手許を注視した。気ぜわしく彼がめくるページは、どうやらウェブサイトのプリントアウトのようだ。その紙には所々に付箋紙が張られ、赤いペンで注釈が加えられている。
「これじゃないな。これでもないな」
独り言を呟きながらページをめくる山下は、西山のブログのプリントアウトでも探しているのだろうか。彼の批判めいた文章を見せて「これを読んだ事があるか」と問い質すつもりだろうか。西山と私が公私共に親しかった事を確認し、私を「秩序を著しく乱す」彼の行動の共犯者とするつもりだろうか。批判的な文章を読んだからといって、それが罪になるのか。権力に批判的な友人がいたからといって、それで私も同類だと判断するのだろうか。それは余りにも行過ぎた権力の乱用だ。
しかし、西山の手紙を投函した現場を目撃されていたらどうだろうか。彼が私に託したエアメールには、国際機関の人権委員会に宛てて権力の横暴を訴える投書が入っている筈だ。郵便局のポストに投函した後、それが社会改善局の手に渡っていたらどうだろうか。山下の所属は「秩序保安課」である。秩序を守るべき彼は、西山に代わって手紙を投函した私の行動を、「公の秩序」に対する挑戦だと判断したのだろうか。
ページをめくる山下の手が止まった。
「あっ、あった、あった。これですね」
彼はそう言いながら、広げたファイルを私が読みやすい向きに変えて、私の目の前に置いた。
西山の「詩」が突きつけられるものと期待していた私の目に、山下は意外なものを提示した。そのページに示されていたのは、テキストではなく写真だった。それも、見覚えのある写真だ。それを認めた瞬間、驚愕を乗せた電流が不快な刺激を伴って脳の表面を走り抜け、私は無意識の内に息を飲み込んでいた。両の目は、大きく見開かれていただろう。
「この写真は、北村さんが撮影されたものですよね」
山下の声に強圧的な色は無かった。だが、彼の抱く確信が言葉に強さを与えていた。
自分で撮影してウェブにアップした写真を、忘れる訳が無い。
社会改善局の嫌疑は、西山でも南畑でもない、他ならぬ私に向けられていたのである。予想だにしていなかった事態に、私の精神は揺らぎ、安定を失った。
私は目の前に突きつけられた写真の隅々まで、食い入るように視線を走らせた。しかし、いくら確認したところで、自分が撮った写真が他人のそれに変わる訳がない。その事実を認識した後も、私の視線はその写真の上を彷徨っていた。視線の行き場を失っていたのかも知れないし、取るべき行動を考え付かなかったのかも知れない。金縛りにも似た感覚が、私の思考から自由を奪い去っていたのだ。
「北村さんの、写真ですよね」
依然として、山下の言葉には威圧するところが無い。それどころか、柔らかい優しさのような印象を伴っている。
その山下の言葉が外的刺激となって、私の思考を縛り付けていた驚愕の箍を外した。
なぜ、この写真をこの場で見せられているのだ。この写真の一体、何が悪いのだ。この写真のどこが、「公の秩序」に対する挑戦なのだ。
私の目の前に突きつけられている写真は、有名な桜並木を画面一杯に撮影したものだ。風に波打つ満開の桜が織りなす仄かな薄桃色のグラデーションを背景にして、散り始めた花びらが春風に舞い飛ぶ一瞬を捉えた、私自慢の一枚である。
この写真のどこが、社会改善法に違反しているのか。この写真が原因で、私は吹きすさぶ嵐の中、人々が眠りに就こうという時間に、社会改善局まで呼びつけられたのか。怒りを帯びた疑問が、胸の奥底から湧き上がってきた。
「ええ。私の写真ですが、何か」
私は理不尽な呼び出しへの抗議を、言葉の端に乗せた。
目の前に座った山下は、深い溜息を吐いていた。期待を裏切られたことへの失望、もしくは思慮浅い者に向ける嘲りの溜息だ。つまり、それを聞く者に見下された不快感を与える態度である。私は憮然とした表情を顔に出しかけた。
「やはり、そうでしたか。困ったことですね」
「この桜の写真のどこが、改善局さんを困らせるのか、私には全く、理解できないのですが」
「この写真のことではありませんよ。この写真は、とても素晴らしいと思います」
「では、何が困るのですか」
「写真のタイトルですね。それと、キャプションも頂けませんね」
「えっ、そうですか」
私がその写真につけたタイトルは『異国の地に散った君に捧ぐ』というものだ。さらに「故国の土を踏んだ君を感じて、今年は桜を愛でよう」という言葉を、そのキャプション欄に記したのだった。
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