決めるのは誰か 月曜日の朝-1
月曜日の朝
月曜日の朝は気だるい。
休日の疲れが癒えないまま、満員の通勤電車に揺られるのは、一週間のリズムの中で最も辛い時間だ。自然と駅に向かう足も重くなる。
休日は私にとって充実したひと時なのだが、それと同時に、父親とサラリーマンを兼務しなければならない、気の休まる事のない時間でもある。
もちろん、休日を家族と共に過ごし、彼らの笑顔を見ることは私にとってこの上ない癒しであり、幸せを味わう事のできる一瞬である。しかし、いわゆる「家族サービス」に勤しんだ後も、私は持ち帰った仕事を片付けなければならないのだ。そうしなければ、私は収入を維持してゆけないのだ。
だがこれから、新しい一週間が始まる。少なくとも会社にいる間は、私は仕事だけを考えていればいい。
疲れと共に奇妙な安心を味わいながら、私は駅へと向かった。しかし、安息の地である会社に辿り着くまでには、まだ一時間以上もの通勤地獄を味わわねばならないのだ。
駅の階段を上り始めた時、改札の向こうから電車がホームに滑り込んでくる騒音が響いてきた。私は思わず足を早めた。この電車に乗らないと、定時に間に合わなくなる。ほんの僅かに味わった二度寝の快感を後悔しながら、私は改札を走り抜け、発車を告げるベルの音に背中を押されるように、最も近いドアに駆け込んだ。
エアーの漏れる音と共に、私の背後でドアが閉まった。
その瞬間、私は二度寝を選択した自分を呪っていた。
私はこの時刻の電車の、この車輌には乗らない事に決めていたのだった。しかし、発車ベルと共に電車に飛び乗った私は、車輌を選ぶ余裕など持ち合わせてはいなかったのだ。
嫌な予感とともに、私は通勤客で一杯の車内を見渡した。まだ身動きが取れないほど混んではいなかったが、ロングシートの座席は全て埋まり、扉の周辺や座席の前には、息苦しくない程度に通勤客が並んでいた。誰もが皆一様に、手にした新聞や書籍に目を落とし、中には食い入るように参考書を見つめる者もいた。だが、誰一人として、周囲の状況に注意を向けている者はいない。というよりも、意図して周囲から目を逸らしているようにも見える。
私は首だけを向けて、その乗客たちの肩越しに、車内のある一画に目を向けた。
スーツの壁の隙間を通して、ロングシートの上に並ぶ窓が見えた。そして窓一杯に、線路脇の植え込みが緑の帯となって流れていった。
「やっぱり、今日も居るな」
私は言葉には出さずに、心の中でだけそう呟いた。彼は今日もこの車輌に乗っているのだ。そして、普段と同じように図々しく振舞っているに違いない。もし彼が乗り合わせていないなら、窓の手前には椅子に座る乗客の顔や肩が並び、外の景色はそれに邪魔されている筈だ。
私は体の向きを少しだけ変えて、その方向に僅かに近寄った。
薄茶色の女性の髪を透かして、上品な濃緑色のロングシートの上端が微かに見える。
前に立つ女性に触れないように注意しながら、私はもう少しだけ、窓際に近寄った。
「やっぱり」
ロングシートの上に横たわる、だぶ付いたズボンの迷彩色を、私は狭い視界の片隅で確認した。いつもの彼が、いつもの如くロングシートに寝そべっているのだ。
この電車のこの車輌の、このロングシートに、毎朝彼は寝転がっているのだ。そしてそれを見るたびに、私は憤りを感じ、一日の始まりを不快感で汚されたような気分になるのだ。だからこそ、私はなるだけもう一本前の電車に乗るようにしていたし、もしその電車に乗る事になっても、別の車輌を選ぶように心掛けていたのだった。
込み合った通勤電車のロングシートを占領して、当然のように寝転ぶ彼は、年の頃は十代後半か二十代前半、高校生から大学生といった雰囲気だ。とても社会人には見えないし、彼はいつも有名私立学校の最寄駅で電車を下りる。
そしていつも、混雑した通勤電車のロングシートを、それがさも自宅のソファであるかのように寝転び、ニヤニヤしながら漫画本を読むか、ぶつくさ言いながら携帯電話を操作している。耳に挿したヘッドフォンで音楽を聞く彼には、周囲でつり革に捕まる乗客の存在など、見えてはいないようだ。
周囲の乗客たちも、あたかも彼が存在しないかのように振舞っている。彼を睨みつける者はおろか、彼に注意する者もいない。ロングシートで横柄に寝そべる彼は、毎朝その車輌に乗る通勤客たちにとっては、既に当たり前の存在なのかも知れない。
ごく稀に、彼に注意しようとする人もいるし、杖を突いた老人が席を譲ってくれるように頼む事もある。しかし、彼らの勇気有る、しかし「無謀な」試みは、その若者の罵声で消し飛ばされてしまうのが常だ。
「うるせえ!ジジイ」
それでもなお、彼を諭そうとする「良きサマリア人」には、こんな言葉が待っている。
「俺は病人なんだ。椅子に寝転がってなにが悪い」
大抵の人は、ここで彼を説得しようとする努力を放棄する。だが、中には「力の行使」に訴えた人もいたそうだ。
声を潜めてひそひそと話す女性客の会話を、意に添わぬことであるが盗み聞きして知り得た情報によると、事の次第は次のようなものだったらしい。ロングシートで寝そべる若者を実力行使により排除しようとした男性は、「体育の先生」のステレオタイプのような、屈強な青年だったそうだ。だが彼は、あろうことか若者の返り討ちに遭ってしまい、骨を折るかなにかの大怪我を負ってしまったらしい。それだけでも十分に恐ろしい事なのだが、なお悪い事に、その「体育の先生」の方から先に手を出したという事で、彼は傷害罪で告訴されたという。
無責任な噂話かも知れないが、真偽の程は確かめようがない。まさか、ロングシートの上で「涅槃仏」を決め込む若者に訊く訳にはゆかない。
しかし、その噂話が広まった途端に、彼の寝そべるロングシートから距離を保とうとする人が増えたのは確かな事実だ。それまでは、車内が込んでいる事もあって乗客たちは椅子のギリギリ近くにまで近寄って並んでいたのだが、その噂が広まって以降は、皆で申し合わせたかのように、ロングシートから十センチほど離れて立つようになった。
馬鹿馬鹿しい話である。注意する相手には恫喝し、諭す相手には「自分は弱者だ」と開き直り、他人に怪我を負わせておきながら被害者を決め込む。一体、彼の両親はどんな教育をしてきたのだろうか。
乗客たち背中に隠れて、冷ややかな視線を若者の迷彩ズボンに送りながら、私は「義憤」に似た怒りを感じていた。と同時に、目の前で不条理が展開されているにも拘わらず、全く無力である自分にも、憤りを感じていた。しかし、そうは思いながらも、私は乗客たちの陰に隠れたままであった。
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