壁のち壁、ところにより… II-3
←・前節へ
「そうなったら、そうなった時やな」
生易しく扱う事で彼が怠惰に堕してしまったら、それは彼が自ら墓穴を掘ることになる。彼の仕事の遅さやミスの多さは、管理職でも問題になっている筈だから、もし今よりも悪くなる事があれば、遅かれ早かれ、彼には引導が渡されるだろう。
「まぁ、暫らくは先生の言葉を信じて、こそばゆい偽善者でも振舞ってみるか」
彼には似つかわしくない快活な雰囲気を発散しながら、技術アシスタントが仕事を再開した。その様子に不思議な安心感を覚えながら、私はそう呟いていた。
「良いところを探して、褒める」という先生のアドバイスを、そのまま上司に適応することはできなかった。いきなり部下が自分の事を褒めそやし始めたら、何らかの下心があると詮索されるのがオチだろう。それに、自分がもしそれをやられたら、まず一番に「気持ち悪い」と感じる筈だ。
その代わり、私は彼らが管理職として払っている努力の良い面をより好意的に捉え、感謝の意をさりげなく表す事にした。
部下の能力を引き出すも殺すも上司次第であり、部下がその能力を遺憾なく発揮できるように支援、或いは誘導することで、組織のリーダーはチームの潜在能力を引き出すのだが、往々にしてその努力は部下たちから「当たり前」と受け取られがちである。中には上司たちがそのような努力を払っている事に、気付きもしない者もいるだろう。
そういう「当たり前」の配慮や支援に対して、私は穏やかな感謝の念を、意図的にだがさりげなく、時折示すようにしてみた。
私の対応の微かな変化は、それでも驚きを持って当時の上司から迎えられた。当初は冷笑をもって対応されたが、ゆっくりとだが確実に、上司との間に存在していた溝は静かに埋まってゆき、その代わりに、打算的な駆け引きとは無縁の信頼関係に裏打ちされたチームワークが、徐々に姿を現し始めた。
それは融け始めた根雪の間から、地面を割ってフキノトウが芽吹き始めるような爽やかさを、私の心の中に吹き込んだ。そして何時の間にか、周囲の人間に対する苛立ちや敵意はその姿を見せなくなった。それらの感情が私の心から完全に消え失せた訳ではなかったが、少なくとも、思考過程に占めていた「常連」の立場を失っていた。
さらに不思議な事に、ある人物の行動や言動に対する冷笑的な解釈や、悪意を伴った否定を耳にする事が、私にとっては苦痛になってしまった。つまり、居酒屋や喫煙所で交わされるそれらの不毛な会話に、私は不快感を覚えるようになったのだ。つい先日までは、自分自身がそのような言辞を弄していたにも拘わらず、である。判りやすく言うと、日常的に口にしていた悪口や皮肉を自分が言わなくなったと同時に、他人の口からそれを耳にするのが気持ち悪くなった、という訳だ。自分勝手な奴と言われれば、それまでであるが。
「なんかお前、最近、変わったな」
薄茶色の煙を吐き出しながら、喫煙所仲間の同僚がふと漏らした言葉には、「宗旨替え」した私に対する驚きと、軽い非難が含まれていた。
「そうか?」
「なんかな。新興宗教にでも入ったのか」
「ばか言え。そんな暇、あるかよ」
「ふーん。でもなんかな、本来のお前とは違うような気がするな。最近のお前の言動を見ていると」
「そうかい。まぁ、少し老けたのかも知れんな」
「はははっ。老けるにはまだ早いやろ。まだまだ、俺たちは若手やで」
「ははっ、そう思いたいな」
下らない会話を交えつつ、自分が周囲に与える印象が確実に変化している事を、私は同僚の言葉から確認していた。それと同時に、彼の言葉の中に存在するある観念に、微かな反発を覚える自分を自覚していた。それまでは、その言い回しをさほど気にも止めなかった筈だし、他ならぬ私自身も他人に対してそれを使っていた筈だ。
「本来のお前」とは一体何者だろうか。翻って考えれば「本来の自分」とは、一体何者だろうか。そんな者が、果たして存在するのだろうか。
他人に対して「本当のお前」と言う場合、自分の脳内に存在する他人のイメージが本来あるべきものであり、現実に自分の前に存在する他人は誤っている、或いは本来あるべき姿ではないと言うのに等しい。時として、この表現は他人を勇気付ける際にも用いられるだろうが、その他人の変化を自分は歓迎しないという意思表示にも解釈できる。
その同僚は、恐らくそこまで深い意味でこの表現を使った訳ではなく、私の変化に対して彼の抱いていた違和感を表現したかっただけなのだろう。
しかし、「人は不変」という考え方を多くの人が信じている事を、彼の言葉は如実に物語っているのではないだろうか。どうやら「人は変化する」という考え方は、一般的な概念ではないようだ。だが、私の身に起きた変化は、彼も認めているように間違いなく「変化」であり、考え方の変化がそれをもたらしたのである。
いい方向に変化したのであれば、それをわざわざ元に戻す必要はない。
同僚と共に薄い煙を虚空に吐き出しながら、私はそう考えていた。








0 コメント:
コメントを投稿