Be better than it is.-VIII-4
「何を迷ってたの」
僕は歩き始めた。僕達の目指す先は、当時JR三宮駅の南側に建っていた、暗い焦げ茶色の外装も重厚な新聞会館だった。日の光が当たる角度によっては、厳しい黒色にも装いを変えた新聞会館は、流麗なアーチがヨーロッパの駅舎を思わせる風格を漂わせていた阪急三宮駅と並び、震災以前の神戸の顔でもあった。新聞会館には数件の映画館が入っており、僕達が見る予定の映画はその一つで上映されていた。
「夏物が安くなってたから、前から欲しかった服を買おうと思ってたんやけど、色で迷っちゃって」
彼女はちょっと小走りで僕の横に並んだ。
「どんな色で悩んでたの」
「茶色と青、もうどっちも良くて、決めかねちゃった」
「ふーん。で、どっちにしたの」
「青色の方」
「いま着てるやつ?」
「そんな訳ないやん」
彼女は、僕のしょうもない冗談に対して、笑いながら答えてくれた。
「今度着てくるね」
「楽しみにしてるよ」
真夏の日差しは僕達を真上から照り付け、濃く短い影を作った。佐紀子の顔や姿は強烈な日光を弾き返し、僕の目に焼き付いた。僕の横を歩く彼女の姿を見て、僕はこの世で一番誇らしい男になったように感じた。同時にその誇らしい気分は、新しい展開に一歩を踏み出した、緊張感の裏返しでもあった。
大学の練習場ではなく、神戸の街を、佐紀子と二人きりで歩いているという状況は、僕にとって間違いなく、新しい展開への序曲であった。そしてそこからはもう、後には退けないのだった。汗が、暑さだけでなく緊張感からも、僕の額や首筋に吹き出していた。海からの風が時折、僕達の髪や肌を撫で、その時だけ僕は、涼しさを感じる事ができた。
蒸し暑い空気の中、人の波をかき分けて新聞会館に辿り着いた僕達は、学生料金を払い映画館に入った。佐紀子はパンフレットを買ったが、僕はカップのコーラとポップコーンを買っただけだった。映画が始まる前、彼女が化粧室に出かけている間に、僕はタバコを二本、立て続けに吸った。
薄い暗い照明の映画館は冷房がしっかりと効いていた。僕達が見た映画は大人向けだったせいか、夏休みの日曜日であるにも拘わらず、館内は意外と空いていた。僕は、映画館の真中が一番良い場所だ、と主張したのだが、佐紀子の主張を容れて前の方に座る事にした。
宣伝フィルムが始まり、当時、テレビでシリーズ放映されていた婚約指輪CMの、映画館だけの特別編が上映され、僕達は笑いながら真面目に演じる俳優達を冷やかした。退屈な神戸市政ニュースの後は予告編だった。宣伝から予告編の映写中、僕達は銀幕を見たまま、ポップコーンを食べ、宣伝などの感想を喋っていた。予告編が終わる頃には、僕はポップコーンを食べ尽くし、本編が始まるのと同時に、僕達は喋るのを止めた。
僕達が見た映画は、僕が誘ったのだが、彼女好みの映画だった。僕は映画を見たかったのではなく、彼女をデートに誘いたかった訳なので、彼女好みの映画を提案したのだった。そんな事もあって、映画の序盤は少し退屈だった。だからといって眠ってしまうと、後で「あのシーンが良かった」などいう話になった時に対応不能に陥ってしまうため、寝るのは厳禁だった。その上、上映中は二人で話したり、お互いの顔を見たりする事はなく、映画と彼女、映画と僕という構図にならざるを得ないことに、映画が始まってから僕は気が付いた。内心「しまったな」と思っていたが、彼女と僕の共通の趣味は映画しかなかったので、その当時の僕としてはやむを得ない選択でもあった。
幸いな事にストーリーが進行してゆくうちに、僕は少しずつ話に引き込まれてゆき、眠りに落ちること無く、最後まで見る事ができた。見終ってしまうと、居眠りの心配が杞憂に思えるほど、なかなか秀逸な映画だった。佐紀子もそう思ったのか、エンドクレジットがスクリーンを流れ終わるまで、僕達は席を立たなかった。緞帳が締まり、音楽が終わるのを待って、僕達は席を立った。
「出よか」
いい映画ではあったが、僕の目的は映画ではなかったので、彼女が「もう一回見よう」と言う前に、僕は先手を打った。
「そうしよか」
彼女も二回見るつもりはないようだった。
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